無農薬※1の米からお酢を造ろうと決意
無農薬※1のお米から酢を造ろうと決めたのは、3代目である輝之助です。戦中・戦後の食料難の時代、政府は米から酢をつくることを禁止していました。その禁がやっと解け、晴れてお米から酢を造れるようになったのですが、高度経済成長期の昭和30年代になると、毒性の強いDDTなどの農薬がどんどんまかれるようになります。
田んぼには人が近づかないよう立ち入り禁止の赤い旗がたてられ、フナやドジョウなどの生き物がいつのまにか姿を消していきました。そんな光景を目の当たりにし、こんな田んぼで作ったものを食べたら体がおかしくなるんとちゃうか。こんな米から酢を造っとったらあかん!」と感じたそうです。
それから「農薬を使わんとお米を作ってくれまへんか」と地元・宮津の農家を一軒一軒頼み歩く、農家回りの日々がはじまりました。
しかし、大量生産・大量消費が美徳、無農薬※1や環境という考え方自体が全くといっていいほどなかった当時、農家の人を説得するのは大変なことだったそうです。
念願の無農薬※1米を作ってもらえるのに、2年もの月日が必要でした。飯尾醸造が無農薬※1米づくりに取り組みはじめたのは昭和39年。
日本で農薬問題がはじめて社会的に注目されるきっかけとなった有吉佐和子さんの『複合汚染』が発表されるおよそ10年前のことでした。
3代目 飯尾輝之助
3代目と4代目
4代目 毅が挑戦した新しい農法
3代目を引き継いだ息子の4代目毅は、真面目で研究熱心。現在の商品の8割方は4代目の考案によるものです。すのもの酢、ゆずぽん酢など定番の調味酢の他、林檎酢、紅芋酢をはじめとする果実酢も商品化。過去には南瓜酢や蕎麦酢という商品もありました。
商品開発だけでなく、新しい農法にも取り組みました。安全な原料を確保しつつも、農家の方々の負担を減らしたいというのが4代目の強い願いでした。
毎日、農業関連の新聞や専門誌に目を通しては情報を集め、これはという農法を見つけたときには、農家や農協の方々と一緒に先進地に見学に行くなどして研究すること20年余り。
試した農法は、ビニールマルチ農法、再生紙マルチ農法、液体マルチ農法、再生紙直播きマルチ農法、カブトエビ農法など、6種類以上に及びます。
現在は、黒く色付けされた紙を敷きながら田植えをする、再生紙黒マルチ農法に落ち着きました。黒い紙を利用するのため日光がよく集まり、稲の生長が促進されます。
無農薬※1で米を育てる上で最大の課題は雑草との戦いですが、この農法では、自然に紙が溶けて土に返るまでの間、雑草が生えてこないことも大きな利点です。
田んぼにただ苗を植えるのと違い、紙マルチを敷きつめながらの田植えとなるため、特殊な田植え機や資材費が必要なので、コスト面では高くつきます。
しかし、費用は飯尾醸造が負担して契約農家へ提供しています。出来上がった米の買い取り価格も非常に高く設定しているため、コストだけを考えると非効率な経営と言われてしまうでしょう。しかし、それは4代目のこのような想いがあるからです。
1. | おいしい酢は、おいしい米からできる。 丹後の棚田で穫れる最高のお米はうちのお酢には欠かせない。 |
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2. | しっかりと目の届くところで、 信頼できる人が作った米がいちばん安心だ。 |
3. | 日本の農業を守りたい。 とくに地元の農業とのつながりを大切にしたい。 |
ある契約農家さんが「飯尾さんのところで米を買うてくれなんだら農家は続けれんかった」と言ってくださったことがあったそうです。
苦労して無農薬※1で米を育ててくれる契約農家の方が農業で生活できないようなやり方ではいけない。その信念が契約農家との信頼関係を育て、現在につながっています。
平成14年からは、高齢化により米作りができなくなった契約農家から棚田を借り受け、蔵人が米作りもはじめました。
借り受けたのは、機械が入らない曲がりくねった棚田です。収穫量からすれば、その分が無くなってもお酢の製造に大打撃という量ではありませんでした。
耕作面積がどんどん少なくなってきている棚田の景観を守るためにと始めたことでしたが、それからもう10年余が経ちました。
4代目の無農薬米づくりの取り組みについては、こちらもご覧ください。
『無農薬米づくりの取り組みと新しい農法』
(お酢屋娘・飯尾淳子、2000年筆)
5代目彰浩の取り組み
開かれたお酢屋へ
現当主の5代目彰浩は、双子の妹淳子とともに「酢屋(すうや)」の子として育ちました。
父・毅は、高校1年の進路面談で担任の先生にこう言ったそうです「東京農大の〇〇先生の研究室で、酢の香りの研究をさせたいんです」5代目の進路は父の言葉そのままに決まりました。
なぜ酢の香りの研究であったか。それは、4代目の大きな悩みに端を発します。悩みというのは「純米富士酢」の香りでした。「純米富士酢」は、原料米をたっぷり使い、昔ながらの製法で造っているため、米酢本来の芳醇な香りがします。
一方で、工業的に速く造る酢にはその香りがありません。そのため、市場の大半を占める速醸の酢に慣れた人の中には、「純米富士酢」の香りを敬遠する人は少なくなかったのです。
原料も製法もと飽くなき探求を続け、より良い物を造り、それでもその香りのために選んでいただけない。
いいものを造っているからというだけで売れる訳ではない。厳しい現実でした。
この香りがどうにかなれば、もっと多くの人に受け入れてもらえるはずです。
父の願いを託された息子はやがて「富士酢プレミアム」を生み出します。「純米富士酢」よりも多くの新米※2(1リットルにつき320g以上)を使って旨味や甘みを最大限に引き出すことで、香りを変化させることに成功しました。そして、これまで酸味によって隠れていた淡い味わいを引き出すこともできました。
さて、米作りはと言うと、大学入学以降の10年間を東京で過ごし宮津に戻ってきた5代目、父の後姿を見て育ったものの農作業経験はありませんでした。
しかしそのうちに、「宮津には都会に無いものは何でもある」ことに気づきます。既に蔵人による米作りがはじまっており、その様子をブログ『酢を造るといふ仕事』で発信し始めます。私どもが米作りをしているのは曲がりくねった棚田ばかり。田植えも稲刈りも機械が使えず、すべてが手作業です。
5代目はひらめきました。都会ではできない体験を宮津でしてもらおう。これほどまでに手作業なのも、都会の人にはかえって新鮮なはずです。
手伝ってもらえれば蔵人の負担も軽減できます。
しかし、東京から電車で4時間半、大阪からでも電車で2時間、そこからさらに車で40分の棚田に、
わざわざ農作業に来ようと誰が思うでしょう?はじめは反対もされました。そんな中、平成19年から田植えと稲刈りの体験会を始めました。
最初の年の参加者は、知り合いや取引先の方々が数名のみ。翌年からは通販のお客様も増えてきました。そして、今では毎年のべ100名以上の方々がお手伝いに来てくださるまでになりました。
自分が植えた苗が、刈った稲が、お酢になって手元に戻ってくる。どんな人がそれを造っているのかが分かる。お客様へ開かれたお酢屋の試みはこれからも続いていきます。
5代目 飯尾彰浩
田植え前から稲刈りまでの間、蔵人そろって何度か草刈りをします。虫除け網をかぶって、真夏は炎天下での作業です。
東京から手伝いに来てくれた皆さんと
海を眺めながら休憩中。