飯尾醸造について
私たちの想い
人生が
変わるお酢。
ほんとうにおいしいお酢に出会うと、
料理の風味が変わります。
豊潤な香りと旨味で、
味わいが驚くほどゆたかになります。
ほんとうにおいしいお酢に出会うと、
食生活が変わります。
料理をつくることが好きになり、
日々すこやかさを感じてきます。
ほんとうにおいしいお酢に出会うと、
自然への意識が変わります。
お酢が生まれた里山に想いを寄せ、
その恵みを守るために行動したくなります。
ほんとうにおいしいお酢に出会うと、
からだも、気持ちも、
生きかたさえも変わってくる。
あなたと、あなたの大切な人にとって
人生が変わるお酢屋でありたい。
そんな想いをこめて。
ご挨拶
明治26年(1893年)に初代、長蔵が小さなお酢屋を始めました。近所の農家から分けてもらったお米を原料に加工品をつくろうとしたとき、近隣に酒蔵があったことから競合しないよう、お酢を造り始めたと伝え聞いています。
そんな小さなお酢屋も世代とともに、少しずつ役割が増えてきたように感じています。私の祖父である三代目の輝之助の時代は、「安全な原料米を使った美味しいお酢を造ること」が大きな役割だったはずです。まだ、「オーガニック」や「無農薬」「有機栽培」という概念がなかった1960年代のことでした。
それ以来、40年ほどは京都・丹後の契約農家にすべての原料米作りをお世話になってきました。農薬を使わずに米を作ることは現代においても大変な根気と労力が必要です。ましてや、テクノロジーが発達していなかった昭和の時代には、さらに大変だったことが容易に想像できます。
それを目の当たりにした父であり四代目の毅は、契約農家の労力や苦労を減らすために様々な農法にチャレンジしました。液体マルチ農法、直播マルチ農法、カブトエビ農法……。また、農機具や一部の資材をお酢屋が購入することによって農家の支出を減らすとともに、農協の3倍ほどの価格で米を買い取ることを決めました。これらの決定によって、契約農家が永く、原料米をつくってくれることにつながったのです。
その後、平成14年(2002年)からは契約農家の高齢化と後継者不足にともなって、米作りをやめる農家のたんぼを借り受け、蔵人自ら棚田で米をつくることにも着手したのです。祖父からバトンを受けた父にとっては、お酢屋を発展させることの他に、契約農家の暮らしをサポートすることや、里山の景観を保全することも、役割のひとつになったようです。
この考え方は、現代において「サプライヤーではなくパートナー」と呼ばれるものです。飯尾醸造において明文化はされていませんでしたが、ステークホルダーのひとつとして「契約農家」や「地元」を意識していたことも、先進的だったと思います。
五代目を継ぐべく育てられた私(五代目 彰浩)は、父、毅から与えられたミッションである「富士酢の香りを改善」すべく、東京農業大学に進学します。4年生になる頃、父が希望していた研究室に入ることはできましたが、大学院生の研究チームに配属になったことから、お酢屋にとって必要な研究はできませんでした。そこで、大学院に進学し、2年間研究に没頭します。いきものである微生物を扱う研究は最低でも1セットで4日を要するため、土日もほぼ休みのない生活でした。
その後、東京コカ・コーラボトリング(現、コカ・コーラ ボトラーズジャパン)、日本コカ・コーラで計4年半お世話になりました。2年間は営業サポート、その後の2年間は営業教育機関の立ち上げとカリキュラムの策定、最後は東京エリアのマーケティング。このときの経験や出会いが今の飯尾醸造へのアップデートにつながっています。
平成16年(2004年)11月、東京から戻った私(五代目 彰浩)は翌年の4月、初めて棚田で農作業をして、その楽しさと景色のすばらしさに驚きました。高校生まではただの田舎だと思っていた場所も、立場がかわると大きく異なって見えたのです。つまり、蔵人にとっては「日常の作業」であっても、都会の人にとっては「非日常の体験」ということに気づいた瞬間でした。
この発見をきっかけに始めた田植え・稲刈り体験会は、少しずつ応援者が増えていき、今では毎年200名近い方々が参加してくれています。その結果、蔵人たちにとっても貴重な交流の場となっています。現代では「体験価値」や「共創」と呼ばれるようですが、もちろんこれらを意識していたわけではありません。
他にも、蔵案内やデパートの物産展など、お客様と直接交流することの楽しさに触れた私に思いがけない話が舞い込んできたのは平成25年(2013年)ごろのことでした。地元の先輩である設計士から言われたのが、宮津の街なかにある大きな商家を守るために協力してほしいということ。
当初、京都市内の建築会社がこの場所を買い取り、リノベーション工事をするので、土蔵を借りてBARをやってもらえないかという打診でした。他に母屋でイタリアンかフレンチレストラン、3部屋のゲストハウス、2階建てのショップのテナントの店子が決まり次第、このプロジェクトがスタートすることになったのです。私にはBARの知見がないこともあって、「カウンター6席の江戸前鮨屋ならおもしろそう」と返事したことを覚えています。リスクとしても、毎月の家賃と2人分の人件費ならなんとかなるように思えました。
その後、複合施設に入るお店が決まるのを待つ間、全国の著名な鮨店や、「世界一の美食の街」と言われるスペインのサン・セバスチャンを平成27年(2015年)に訪れるなど、疲弊する丹後の街の活性化に想いが深まっていきました。
京都・宮津は丹後半島の付け根に位置します。「天橋立」は、私どもの蔵から車で15分ほどです。
結局、飯尾醸造以外に店子は1軒も決まらず、シビレを切らした私は自社でこの物件を買い取り、「旅の目的になるレストラン」をつくることを決意しました。そのためにまずは両親の説得にあたることになります。本業以外の、しかもまったくのド素人である飲食業に参入することへの不安や反対がありました。私が逆の立場であっても同じ行動を取ったと思います。
今となっては記憶にありませんが、何度かの説得交渉の末、「そこまで言うなら好きにすればいい」と半ば強引に了承を取って、ボロボロの古民家の取得と再生が始まったのです。
東京からひいきにしていたイタリア料理のシェフを招へいし、平成29年(2017年)の夏、古民家イタリアンレストランであるaceto(イタリア語で「酢」)をオープンしました。最初の半年は私自身も毎日、店舗の掃除に始まり、営業中は料理やドリンクをサーブし、閉店後の片付けまで、お酢屋の仕事と並行して働きました。
飲食事業はまだ軌道に乗ったわけではありませんが、この挑戦を好意的にとらえてくれたメディアの力もあって、少しずつ京都・丹後への注目が集まってきたことを感じています。それとともに、飯尾醸造に興味・関心をもっていただけることが増えました。
このように輝之助からはじまった三世代の役割は、お客様、契約農家、地元など、少しずつ広がっていきました。まだまだ道半ばではありますが、蔵人たちとともに、「小さくても必要とされるお酢屋」を目指して挑戦を続けていきます。
五代目当主 飯尾 彰浩
会社概要
社名
株式会社飯尾醸造
創業
明治26年(1893年)
資本金
2,000万円
所在地
〒626-0052 京都府宮津市小田宿野373
代表者
飯尾彰浩(五代目当主)
事業内容
食酢の製造・販売、飲食店、研修