京都府で一番雪深いといわれる山間の集落、上世屋の坂道をさらに超え登りきり、世屋高原を行くこと約5分。この先に民家があるとは思えないような砂利の細道を少し下ると、目の前に棚田が一気に広がる。薪が積み上げられた家に隣接する作業場には溝口喜順さんの姿。近年のお客様のニーズの変化に合わせ新しく投資した機械も並んでいます。
溝口喜順さん
宮津市松尾で代々続く農家の8代目。
数年前、この地域で暮らす最後の一軒となりました。幼い頃は、山の中腹の木造校舎の小学校から山道を登って帰り、帰宅後、兄弟で田畑の手伝いをする暮らし。冬場は豪雪で家から学校へ通えず、近隣の子らと公民館で親元を離れて暮らしたそうです。家業を継ごうと高校時代は寮生活で農業を学び、綾部市の農業大学校へ進学。綾部の農業大学校では野菜の露地栽培を中心に学び、卒業後は愛知県内の農業法人に4年ほど勤務した後、宮津市に帰郷しました。
飯尾醸造とのつながりは、7代目である父・兵一郎さんの代から。農薬を使わない特別栽培はかなり珍しい時代。初めの頃は引き受ける農家はなかなかなかったそうですが、飯尾さんの熱意に胸を打たれた話は今でも家族ですることがあるのだとか。
溝口さんが帰郷当時の耕作面積は2.5ヘクタールで、親子2人でする農業としては少なく、宮津市が推進した特産品、生花「ストック」の栽培を始めました。他の地域より早く 出荷でき、高原の気温差から生まれる美しい色が魅力のストックでしたが、生花の流通は距離が壁になります。「ストックの栽培は、公が主導で推進していて、自らの熱意で選んだものではなかった」そう。達成感のなさと、条件的な問題から事業継続は難しいと判断せざるを得なかったのだそうです。それでも過疎地の若手就農者として取り上げられ、意図しない誇大広告を出されたような後ろめたさに「これでいいのだろうかと悩むことも多かった」と当時の胸の内を振り返ります。
ここで一旦農業から離れようと思った溝口さん。まだ20代で畑と家の往復のみ、人と出会うことのないここで暮らしていて、ここに嫁いで来てくれる人はいるのか将来への大きな不安もあったのだとか。
離農して全く異なる建設業を経験し、35歳の時あらためて「農業一本でやってみたい。自分の思ったことを好きにできる」と自分の思いを見つめ直すことができたのだそうです。何より米農家を継いで、いいものをしっかりと作れるように頑張ってみようという気持ちになったのだと言います。
また、田んぼの管理は簡単そうですが、近隣の上世屋などと違い川もないこの場所。森からの湧き水と降雨だけで管理をしていて、効率よく水を回すための見回りも欠かせません。松尾地区全体の棚田の面積は約14ヘクタール。東京ドーム約3個分と言えばご想像いただけるでしょうか。松尾の農家組合や単発アルバイトの皆で、毎年獣害用のワイヤーメッシュでぐるりと取り囲み、夏の炎天下、棚田の斜面である法面(のりめん)を草刈りし、またメッシュを冬前に取り外すだけでも一苦労なのです。
実は溝口さん、俳優の山田孝之さんが「自給自足生活の知恵、そして何より生きていくためのノウハウを身につけたい」と始めたコミュニティ「原点回帰」唯一の受け入れ農家で、宮津の棚田での稲作を全面的にサポートする仕事も行っています。
山田さんは自然農法、固定種、天日塩、雑草、雑穀、釣り、和蝋燭、不食など、全国にいるそれぞれの達人を訪ね、そこで学んだことをメンバーに共有しています。現在は全国各地の畑でこだわった農法を行い、収穫した野菜をメンバーたちとシェアしていますが、2023年からは、この棚田で稲作も始められました。
しかし、別の仕事をしているメンバーが多く、実際に作業できるのは土日が中心になることが多いため、溝口さんが手助けもすることになったのだそうです。「普通なら、稲作をやるんだったら全部やるのが普通だと思います。でもこういう場所に出会えたのも本当にご縁だと思いますし。ぜひ米づくりをやらせていただこうと」とは山田孝之さんの言葉。
「厳しい環境での米づくりに光が当たったきっかけは、飯尾さんとの出会いで一番の収穫」と溝口さん。地域に食育を広げる活動もするなど、子供達の未来へとつながる農業を実践されています。山田孝之さんもうなる美味しいお米。これからも飯尾さん、そして地域と共に作られていくのでしょう。
(聞き手:京近 淳 撮影:中井 由紀)